「整形」した有名人といえば、マイケル・ジャクソンの名前を出さないわけにはいかない。
彼の顔を改めて思い出すと、なんともいえない、なんとも例えようのない気持ちになる。
「ジャクソン5」で活躍していた60年代末、マイケルの鼻は大きく丸く横に広がっていた。
しかし今の鼻は鋭く上に向かっている。鼻だけにとどまらず、見れば見るほど色々な箇所が“改造”されているように思えてくる。
化粧もかなり濃く見えるが、整形も決してプチと言えるものではなさそうだ。
自伝『ムーンウォーク』(田中康夫訳、ソニー・マガジンズ、1988)では、
鼻の手術を2度、あごのくぼみをつける手術を1度受けたことだけを語っている。
肌など他の部分の整形については認めておらず、また「整形」をした動機について語られたこともない。
だからこそ動機についてはさまざまな憶測がある。
日本では「整形」イコール美容目的という公式が一般的だが、マイケルの場合、そう簡単なものではない。
アメリカという多民族国家における黒人の立場は厳しいものであった。
黒人歌手がテレビなど表舞台に立つには相当高い壁を越えなければならないそうだ。
また、個人レベルでいえば、マイケルは仲間内で黒人らしい容姿をからかわれていたようだ。
そこでマイケルは黒人でもなにものでもない姿を得ようと「整形」を試みたのではないかと言われている。
そして現在のマイケルは、民族性や年齢、そしてジェンダーまでも超越した姿となっている。
容姿は人ぞれぞれだが、そこに隠しきれないプロフィールが埋めこまれている。
肌の色、髪の色、しわの数、目の色、背格好。人を見ると大抵の場合すぐに年齢・性別くらいはわかる。
外国人であれば、「イタリアっぽい」とか「東南アジアだろう」とか、見た目で判断ができてしまう。
しかし、それが耐えがたい苦痛を伴う場合もあるのだ。民族的な問題だけではない。もっと身近にもある。
怖そうな顔をしていても本当は優しい人かもしれないし、気の弱そうな顔をしていても本当は頼りがいのある人かもしれない。
人を見た目で判断してはいけない、とよく言うが、それでもやはり我々は無意識のうちに見た目を重視してしまっている。
よく「個性」が大切だと言われる。
昔は全員丸坊主だった男子学生が今では様々な髪型をしているし、制服のない高校も増えてきている。
「○○らしさ」という枠にはめて人をカテゴライズしておけば容易に他人を判断できる。
しかし人はひとりひとり違っていて当然だ。「男らしさ」「女らしさ」といったジェンダーの問題はその代表格だ。
「整形」によってみんなが同じ美の基準に向かっていくその裏側で、
なにものでもないたったひとりの自分になるために「整形」という手段を選ぶ場合もあるのだ。